盆やで
山ぁぁ!!!
こんなブログでこんなことを書くのも不謹慎なように思ったが、13日に祖母が亡くなった。
前日の12日は会社の同僚と飲んでいた。先輩にうながされるままにテキーラをおちょこほどの大きさのグラスで4,5杯飲んだところで無念の0時前リタイアとなった。自宅にはたどりつくことができたものの吐き気と頭痛で玄関で寝込んでしまい、寝ていると、祖父が「かあちゃん死んだ!」とわめき散らしながら私を叩き起こしたのである。まだ7時になっていなかったと思う。
祖母は長く糖尿病を患っていた。近年ではそれに加え痴呆が絶好調になっていて、もはやデイサービスではめんどうが見きれず、水橋にある病院に入院させていた。それを12日に祖父が、盆くらいは、と連れてきていたらしい。
その祖父も最近は軽度の痴呆ぶりを発揮しているので、寝言を言っていやがる、と思い私は二日酔いでフラフラになりながら祖母の様子を見に行くと、確かに尋常でない顔色で横たわっている。
目は閉じている。口の端からだらしなくよだれが垂れていて、泡でも吹いていたか?と思った。
触れてみると、熱い。
発熱していたらしかった。脈をみると、ない。ないが、私の判断できることでないと思い、祖父に救急車を呼ぶように言ったが、今さら呼んでどうなるか、と怒鳴られてしまい、それもそうかとその時は思い、祖母がどうやら他界したらしいということを母に告げると、母は妹を叩き起こして、慌てて家の掃除に取り掛かったのである。
そうしていると、祖父は祖母をあずけていた病院に電話して祖母が他界したらしいことを告げた。告げると祖父は、すぐに救急車を呼べ、と病院の看護婦に怒鳴られ、ようやく救急車を呼んだ。救急車が到着したのが7時20分頃だったと思う。
祖父について、少し触れる。
17で兵役についた。
それまで、三日市農学校(現桜井高校?)に通う学生であった。二十歳を過ぎればいつでも赤紙が来るのだが、どうせ駆り出されるものと思い志願したらしい。県庁でペーパーテストがあり、その後、舞鶴で本試験があった。不幸にも合格する(持病でもないかぎり合格するのだが)。
近所にも似たような年恰好で志願した者がほかに2人いたらしい(祖父の知るかぎりで)。
祖父は1年と11ヶ月つとめた。2年も3年も兵役がつとまる者はそう多くはいない。途中、戦死するからである。
前述の二人のうち、一人は一年経ったか経たぬかといううちに弾に当たって死んだ。一人は祖父と共に通信の仕事に回された(彼は4、5年前に病没している)。
しばらくして、祖父は鈴鹿に駆り出されて飛行場を作らされた。そのうちに、飛行機を操縦するようになる。
その頃の日本軍の戦況はすでに絶望的なものになっている。
物資がない。油がないので、戦地に赴く飛行機には行きの分しか燃料を持たされない。飛行機に乗って出戦すればどうなるかは、みなさんの知るとおりである。
祖父が「次は、いよいよ俺か」と思っているうちに、幸運にも戦争は終わる。天皇が国民に終戦を告げたのが昭和20年8月15日。
8月末には帰郷を果たす。満州やシベリアでいまだ戦争状態にあった軍もあったことを思えば、やはり幸運というほかない。
帰りはしたが、学校もろくに行かずに従軍していた祖父が、さてどうするか、と考える間もなく近所の大工から声がかかった。なにしろ若い人手が足りない。しばらくは大工をやった。
しばらくやって、今度は「長崎で売薬をやらないか」という話が来て、この話には飛び付いた。食うものも油もない時代に富山の冬は辛く、年を通じて温暖な長崎に行けるのは魅力的だったらしい。
そうして富山と長崎を行ったり来たりしているうちに、縁談が持ち上がった。その娘の母親は部落一番の美人であるらしかった。父は大阪の大学を出ている(どこ大学はよくわからない)当時としては大変な秀才で、その娘というからどんな女かと胸を膨らませて会ってみると、しょうもない顔をしていたという。
祖母については、触れないことにする。
祖父については、つい2、3日前が終戦記念日だったということで書いた。
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